2000年にもおよぶ長い時間の中で、争いを繰り返してきたヨーロッパ。

ヨーロッパほど目まぐるしく国境線が動いた地域はほかにないといわれています。

ローマ帝国やオスマン帝国あるいはナポレオン率いるフランス第一帝政などの時代からヒトラーのナチス・ドイツに至るまで、ヨーロッパの華やかなイメージとは裏腹に領土拡大を目指す侵略や宗教対立など、歴史を振り返ってみても戦いが絶えることはありませんでした。

険しい山々に囲まれた古代ヨーロッパの人々は、より暮らしやすい土地で資源の豊富な環境へと移動を繰り返しながら安住の地を求めようとしたのでしょう。

もしそこには肥沃な土地と恵まれた資源があったとすれば、先に住み着いた者と後からやってきた者が共存できなければ争いが生まれるのも必然といえます。

第一次世界大戦で敗戦したドイツには領土を奪われた上、多額の賠償金が課せられていました。

そこにアメリカ発の世界大恐慌がやってきます。

世界大恐慌にアメリカはニューディール政策を、イギリスやフランスはブロック経済などを用いなんとか世界大恐慌を乗り切ろうとしますが、敗戦国のドイツ経済は疲弊しきっていますのでどんどん国力が落ちていく一方です。

「もう誰かこの状況なんとかしろよ!」と怒りと失望にドイツ国内が満ち溢れていた時、満を持して表舞台に登場してきたのがヒトラーでした。

もうその後は皆さんご承知のとおりです。

第二次世界大戦終結以降、ヨーロッパにおいて戦争による国力低下や計り知れないほどの経済的損失を生み出すことのないよう、そして大戦以降敵対しあう超大国アメリカとソビエト連邦(ロシア)の影響力におびえず、2つの超大国と肩を並べるためにも「ヨーロッパをひとつに」という思いが叫ばれ始めます。

そこで始まったのが常に争いの原因となりうる鉱物資源の共同管理です。

2つの大戦以前からフランスとドイツ(西ドイツ)では国境付近で採掘される鉱物資源(石炭、鉄鉱石)の利権争いで衝突を繰り返していました。

今後この鉱物資源が争いの火種とならぬよう国際組織を設立し管理していこうとフランス側が提案、ドイツ(西ドイツ)側が了承し賛同したイタリア・ベルギー・ルクセンブルク・オランダなどが加盟国としてEU(ヨーロッパ連合)の源泉であるECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)が1951年に設立されました。

その後、石炭や鉄鋼だけでなく加盟国において国境の隔たりをなくし、関税や輸入制限の撤廃あるいは労働力や資本の移動など、加盟国間のマーケットを共有しようという動きが加わり、EEC(ヨーロッパ経済共同体)が1958年1月に誕生。

この当時、将来のエネルギー不足に対応するためEuratom(ヨーロッパ原子力共同体)も誕生しています。

フランスとドイツを中心としたヨーロッパ諸国の連携は成果を上げ、1967年にECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)・EEC(ヨーロッパ経済共同体)・Euratom(ヨーロッパ原子力共同体)がひとつの組織となり現在のEU(ヨーロッパ連合)の前身であるEC(ヨーロッパ共同体)として生まれ変わることとなります。

EC(ヨーロッパ共同体)発足以降、いままで加盟国間での関税やマーケット共有などの各国経済の発展ばかりではなく、教育・文化・環境・衛生・移民・難民などさまざまな分野において国境の隔たりなく協力体制が強化していきます。

こうしてヨーロッパの主要国が協調してひとつの共同体となり、アメリカ経済や高度経済成長期の日本とともにEC(ヨーロッパ共同体)は世界経済を牽引していくわけですが、1973年、第四次中東戦争勃発によってアラブ諸国の原油価格の引き上げと原油の減産が激化、空前のオイルショックが全世界に襲いかかります。

原油を輸入に依存する国々は原油不足に見舞われ、原油価格の高騰とともに急激な物価上昇が引き起こりました。

このオイルショックが起きたことで今後の世界構図を後々大きく変えていくことになるのですが、EC(ヨーロッパ共同体)はオイルショックを切り抜けるために新たなヨーロッパ諸国との協力体制を築くべく加盟国の拡大路線をとり始めていきます。

そして1973年1月、当時「英国病」と揶揄された経済不振にあえぐイギリスと新たなる協調体制で事態を乗り切ろうとしていたEC(ヨーロッパ共同体、現EU)との蜜月と思えた関係が始まりだすのですが、時代の流れに翻弄され次第にヨーロッパは迷走への道を突き進むこととなります。