2020年1月31日に正式にEUからの離脱が決まりそうなイギリスですが、EU離脱の背景となった2016年6月23日の国民投票で、EU離脱への焦点になったといわれるのがEU離脱からの経済的な損失よりも「移民問題」と「EUへの多額の拠出金」だと言われています。

しかし2020年につながる離脱の流れは加盟当初からありました。

1950年代から1960年代のイギリスは国内の経済不振のためEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)加盟によって経済復興の活路を見いだすため加盟交渉を始めるも、2度にわたって拒否され続け1973年にようやくEC(ヨーロッパ共同体)加盟が認められました。

その恩恵は非常に大きかったようで、1976年以降の見事なV回復を見せています。

ただEC(ヨーロッパ共同体)加盟当時からEC(ヨーロッパ共同体)加盟に懐疑的な離脱派が離脱を主張していました。

1974年10月の総選挙では野党労働党ですでに「EC(ヨーロッパ共同体)はイギリスにとって不利」だとして加盟条件を再交渉すべきと選挙戦を戦っていますし。、翌1975年にはEC(ヨーロッパ共同体)加盟継続を問うイギリス初の国民投票までおこなっています。(この時の国民投票では継続的な加盟が支持されています)

1983年の選挙ではイギリス2大政党のひとつ労働党の左派勢力で「完全離脱」を掲げる選挙戦が展開されています。

その後1980年代後半に入ると加盟国での関税や輸入制限などのない加盟国内の単一共有マーケット構想の重要な支持者である「Iron Lady」で知られるマーガレット・サッチャー首相が、EC(ヨーロッパ共同体)への相反する態度を示すようになります。

イギリス保守党初の女性党首でありイギリス初の女性首相でもあるサッチャー首相は加盟国間の自由貿易構想には賛成の立場をとるも、それらに付随した単一通貨の創設や政治協力体制にイギリス首相として納得がいかない部分がありました。

サッチャー首相のEC(ヨーロッパ共同体)に対する姿勢は次第に保守党内にも広がり、ついには保守党内部でもEC(ヨーロッパ共同体)離脱を唱える動きにもなっていくこととなります。

1970年当時からEC(ヨーロッパ共同体)ではERM(欧州為替相場メカニズム)なるヨーロッパにおける各国通貨の為替相場の変動を抑制し通貨の安全性を確保しようする制度が検討されており、ERM(欧州為替相場メカニズム)参加にイギリスは強く反対の意を示していました。

このERM(欧州為替相場メカニズム)構想は1999年1月1日の単一通貨「ユーロ」導入にへとつながっていくのですが、ERM(欧州為替相場メカニズム)は表向き各国の為替変動を抑制するとなっていますが裏がありました。

戦後脅威の復活を遂げ経済大国までたどり着いた西ドイツのドイツマルクは国際的信用度が高く準備通貨としてはアメリカのドルに次ぐ2位でした。

じつは西ドイツが仕掛けたこのERM(欧州為替相場メカニズム)は、価値が増えた西ドイツのドイツマルクの増価(マルク高)を防ぎながらも競争力を維持し、なおかつドイツマルクのより為替レートが低い他国通貨の為替レートを上げて他国の競争力を削ぐ狙いがあったのです。

西ドイツ側の狙いに早い段階から気づいていたイギリス政府およびサッチャー首相は当然ERM(欧州為替相場メカニズム)参加には反対の姿勢をみせます。(1990年にさまざまな圧力をうけ渋々加盟しましたが、ポンド危機を招き1992年には脱退)

EC(ヨーロッパ共同体)においては1973年にイギリスを含む4か国の加盟に加え、1981年1月1日にはギリシャが、1986年1月1日にはスペインとポルトガルがそれぞれ加盟することとなります。

その間にもEC(ヨーロッパ共同体)では1985年当時EC(ヨーロッパ共同体)加盟国のうちベルギー・フランス・ルクセンブルク・オランダ・西ドイツの5か国において国境検査なしで自由に行き来できるシェンゲン協定や、今までの加盟国間の自由貿易に関する制度を整備し、加盟国共有のマーケットとするべく各国での法律や政策を調整、ヨーロッパ単一マーケットとヨーロッパ政治協力を正式に制定した単一欧州議定書が設立し1986年2月に調印がなされるなど、着々と超国家体制が整えられていきます。

1989年に入るとポーランドの民主化を皮切りに東ヨーロッパにおける共産主義体制が続々と崩壊、この東ヨーロッパにおける共産主義国家の崩壊はEC(ヨーロッパ共同体)にとって新たな方向性を模索しなければならない局面にきたことを告げていました。

新しい世界の情勢に対応すべく現在のEU(ヨーロッパ連合)につながる単一通貨ユーロの創設とともに3つ柱構造をおくマーストリヒト条約が1992年2月7日に調印がおこなわれ、1993年11月1日発効しEC(ヨーロッパ共同体)はEU(ヨーロッパ連合)へと移行していきます。

ここまでくるとEU(ヨーロッパ連合)は各国経済共同体の意味合いばかりでなく、政治的な融合へと道を進もうという流れにまで発展していきます

しかしイギリス国内ではマーストリヒト条約の受け入れには拒否反応が強く、もめにもめた末に通貨条項と社会条項についてイギリスを対象外にすることを要求し、条文に盛り込まれることになります。

ここまでの20年間、1973年にイギリスが熱望したEC(ヨーロッパ共同体)にようやく加盟し、1993年にEU(ヨーロッパ連合)となるまでを見てもイギリス国内では常に離脱を主張する動きが絶えず、それでもなおイギリスの経済発展を推進していく上ではヨーロッパの国々を超えた超国家とのつながりを必要とした経緯が感じ取れます。

同時にヨーロッパの超国家に対してイギリスのアイデンティティを十分に主張できた時代でもありました。

そして時代は怒涛の2000年代へと向かい始めます。