東北の太平洋側、特に海沿いの人々にとって、忘れることのできない2011年3月11日。
あの時も金曜日でした。
それ以降、どんな規模の地震であれ、揺れを感じると季節や場所、時間帯に関係なく、いつも2011年3月11日14:50ごろに起きた、あの「東日本大震災」で経験したことが、否が応でも脳裏に甦ってきます。
あの日は今日と違って、小雪が舞い散るほど気温が低い、まだまだ冬を思わせる寒い一日でした。
その時はまだ郵便局にいた時代でしたが、年度末にあたる3月ということもあり、今年1年の締めの意味も含め、翌日3月12日に私ども主催の「販売目標達成祝賀会」が、とある温泉旅館で盛大におこなわれる予定でした。
もちろん、大きな地震によってキャンセルとなりましたが。
大きな地震でしたがその日は、無慈悲な惨劇が海沿いでおきていることなど、思ってもいませんでした。
そして、原発の事故も。
日常生活が奪われ始めたのが次の日。
水は出ない。
スーパーからコンビニまで、商店という商店はすべて閉まっていて、買い物はできない。
クルマ社会のいわきですが、ガソリンスタンドもすべて開いていない。
まだまだ冬の趣なのに、知人との会話の中には、そのうち電気が止まる話まで出てくる始末。
幸い電気は止まらなかったのですが。
それでも、原発事故の風評であらゆる物資が、いわきに入ってこない状態が始まります。
そのうえ、流れてくる原発事故の報道は、日に日に危険度を増していく。
もう目の前に映る普通の生活機能が完全に麻痺した、非現実的な状況が毎日繰り返されていきました。
仕事も自宅待機状態。
食べ物などの物資は徐々に流通してきましたが、何分流通量が限られているうえ、長蛇の列に長時間並ぶのはもはや当たり前。
行動すにはクルマが必要ないわきでは、ガソリンスタンドが不可欠。
ガソリン20リッター入れるのに、まだ真っ暗な朝の4時から4,5時間待って、ようやくガソリンを入れてもらえる。
そして、最後まで苦しめられたのが「水」。
水が止まった3月12日以降、原発が水蒸気爆発しようが、その危険性をまだ認識していない状況の中、毎朝給水車前で順番待ち。
給水所が開設されれば、一家総出で持てるだけの容器に水を満杯にするのが日課。
こんな毎日が約3週間続きました。
その間、津波によって家や家財、金融証券などあらゆる品物を失い、避難所生活を送っている方々に自己の資金をお返しすべく、急遽、郵便局の窓口を再開。
窓口をオープンしましたが、被災なさった方々も一斉にご自分の資産を現金化するため窓口に殺到、そのうち窓口に被災なさった方々で長蛇の列が発生します。
もう窓口担当職員だけでは対応しきれず、外回りの営業職員も窓口対応に当たりますが、ここで3月11日に海沿いで実際に何が起きたのか、お客さまの口からリアルに状況を聞くことになります。
そう、生命保険に携わっていなければ、知ることもなかった悲惨な現実を。
たぶん、あの時の出来事、お客さまからお聞きしたこと、そして実際に手続きをした内容を、一生忘れることはありません。
サーファーも嫌がる1年で最も冷たい3月の海に、飲み込まれていった人々のことを。
今でも考えます。
津波にさらわれてしまった人々のことを。
「なんで私が?」
それとも、「私の分まで生きて!」
無慈悲にも津波に飲み込まれていった人々の、その時の思いを計り知ることは決してできませんが、察して余りある「無念さ」を感じたことを、どうしても忘れることはできません。
そしてその時、私どもが経験した震災の苦悩など、小さなことだと。
あれから11年。
日常生活は限りなく震災前の現実を取り戻してきました。
ただ、過ぎ去った時間がどれだけ重なろうが、2011年3月11日から約1か月間の時間だけは、決して忘れることはできません。
そう、いまだに昨日のことのように。